製造業のコミュニケーションのセキュリティ確保を確保するためにはメール以外の手法を採用すべき。

Eメールは広く社会に浸透した。便利であるが、この方法が知識の記録方式には大きな問題を与えている。

伝達することだけの機能が問題である。伝達だけを目的として使っている便利さに影でどのような問題があるか考えてみたい。

 仕事で用いる場合、相手に正しく理解して貰う為に、結構な長文となリ、伝達したいことに比べ時間が無駄となる。

 メールに自分の考えや相手の考えなどを伝達し合う事ができても、考え方の整理はメールを探しながら時間軸について再整理が必要。議論する人数が多いと大変手間がかかる。

 誰が先にメールの中で発した意見なのかが直ぐに分からない。

ファイル添付は、原本が何かを不確かにしている。社内のサーバにあるファイルでも、原本であることの管理が難しい。

 ファイルが原本だと思っても実際には相手に古いファイルを送ってしまっているかもしれない。相手は、最新だと思って、自社内のサーバに管理する。お互いにファイル管理が混沌としてくる。

 添付した原本のディレクトリが取得できず、自分の管理下(個人のPC)にコピーを保存する。結局、共有化が崩れていく。

セキュリティ面でも、メールは別管理となる。社外とどんなメールを交わしているかにおいてコミュニケーションの制限を設けるか、性善説にて自由とするかなどを、ポリシーが企業にて異なる。

 セキュリティポリシーの異なる企業間のコミュニケーションは添付ファイル送信するだけでも圧縮、パスワード設定などに手間がかかる。

メールは郵便と同じである。40年も経過した郵便のアプリであるEメールの仕組みは本当に今後も使うべきなのだろうか疑問に思う。

異なる知識経験の集まりでの相互理解の難しさについて

意図していることや思いは、述べられないことが多い。私達はなぜと聞くことが少ない様に思う。素直に相手の話を聴く姿勢が普通で、かえって、なぜと聴く時は、自分は賛成しないような時だけの気がする。これは私だけなのだろうか?逆に言うと私はなぜを説明しなければいけないことが多い集団に属して来なかったからだと思う。

 日本人の特質であるようなご意見も見受けられるが、私はこれまで家族と会社の2つの集団にしか属していなかった。その為に、特別な理由を求められることが少なく、私も理由を求めることが少なく、居心地の良い同等知識の中だけで生きてきたからだと思う。

 それが、会社を離れ、多くの他企業や公務員などの人達と接することになり、どうもこれまでの解釈では、お互いの意見が一致しているのか、一致していないのかが分からないことが多くなってきた。会社員であった時と今では、その違いを強く認識するようになった。そしてなぜを口にする機会が多くなってきたのである。

 社会にて労働の場が流動化し、企業への社員の出入りが多い企業では、なぜと聴くことが増えていると思う。都会は流動化しているが、田舎はそうはなっていない。流動化すれば他者や他社の知識を獲得することができる。流動化しない田舎との情報格差は広がるばかりだと思う。なぜと聴く機会が少ないのは問題だと思う。

インターネットがそれを補っているかと言えば、そうではない。インターネット上のどこに自分が関心を持つことの「なぜ」が載っているのかが分からない。その道のプロを探して、その方の周辺の意見も確認しながら自分なりの理解をする必要がある。このような手間のかかることを人はやらないだろう。私も大変面倒くさく時間を費やされるので好きではない。結局は書店で本を探すことになる。

 詰まるところ、自分が会うべき人をどのように見つけることができるかではないかである。いろいろな事を知っていて答えてくれる人を探す方法だ。これは企業の中でも、少なからず発生している問題点である。企業内のローカルネットワークの中で、知りたいことを教えてくれる人を見つける方法が有れば、それをインターネットに拡張すれば良い。しかし、企業の中でも上手く行われていないと思っている。

 知っている人を探すには、その人の思考や経験や語りなどが公開されている必要がある。それには、コミュニケーションが真摯に行われる場が必要だ。そこに参加する人達の動機も重要であり、何らかの統制にて平和な場であることを欲している。