異なるシステムの連携はデータの粒度と分類体系が異なっていては生産性に寄与できない。

Eメールは氏名の下にテーマがある。では特定のテーマを全メールから集めるにはどうしたら良いのか。メールでは意見を集約できない。


ファイルはファイル名が意味を持つ場合や持たない場合もある。これでも同じような内容のファイルを検索できない。


データベースになると、細かい項目単位にデータを保存する。しかし、その上位の分類をどのようにするかは全くの自由である。これでは複数のデータベースは結合ができない。


つまり、思いつきのままで自由にデータを保存したり、やりとりして下さいというソリューションばかりである。


全体の分類をどうすべきか、データの粒度を、どのように整えるべきかとの検討がされずにソリューションが作られたからである。

この2つを曖昧にして、情報システムが人の仕事の生産性向上になるとは言えない。AIを活かすに於いても、意味のあるデータを準備しなくてはならない。


もし、今のままの雑然としたデータ群を対象に何の取捨選択もなくAIの処理のかけたならば、その結果を人は説明も推察もできないおかしなことを答えてくるであろう。

製造業のコミュニケーションのセキュリティ確保を確保するためにはメール以外の手法を採用すべき。

Eメールは広く社会に浸透した。便利であるが、この方法が知識の記録方式には大きな問題を与えている。

伝達することだけの機能が問題である。伝達だけを目的として使っている便利さに影でどのような問題があるか考えてみたい。

 仕事で用いる場合、相手に正しく理解して貰う為に、結構な長文となリ、伝達したいことに比べ時間が無駄となる。

 メールに自分の考えや相手の考えなどを伝達し合う事ができても、考え方の整理はメールを探しながら時間軸について再整理が必要。議論する人数が多いと大変手間がかかる。

 誰が先にメールの中で発した意見なのかが直ぐに分からない。

ファイル添付は、原本が何かを不確かにしている。社内のサーバにあるファイルでも、原本であることの管理が難しい。

 ファイルが原本だと思っても実際には相手に古いファイルを送ってしまっているかもしれない。相手は、最新だと思って、自社内のサーバに管理する。お互いにファイル管理が混沌としてくる。

 添付した原本のディレクトリが取得できず、自分の管理下(個人のPC)にコピーを保存する。結局、共有化が崩れていく。

セキュリティ面でも、メールは別管理となる。社外とどんなメールを交わしているかにおいてコミュニケーションの制限を設けるか、性善説にて自由とするかなどを、ポリシーが企業にて異なる。

 セキュリティポリシーの異なる企業間のコミュニケーションは添付ファイル送信するだけでも圧縮、パスワード設定などに手間がかかる。

メールは郵便と同じである。40年も経過した郵便のアプリであるEメールの仕組みは本当に今後も使うべきなのだろうか疑問に思う。

最後まで挑戦し続ける人材の育成を

挑戦は誰にもできる。それをやり遂げることは誰にもできることではない。

 一言で挑戦と言っても、その難しさはさまざまである。

 ここで、述べたいことは諦めないということだ。

 私は知識の記録方式ということをライフワークとしている。

 何社かの企業と連携したこともある。しかし、企業の方針はすぐに儲かるか?という点になってしまった。

 ならば、自社だけでやり遂げることと決めた。

 長く継続した研究は先行者優位である。世の中にすぐに受け入れられることを目標にはしていない。

 気合いだけを入れてこの研究に没頭してきたのである。

 そこにはGAFAの巨大化が私達の自由度ある時間を奪っているのではないかとの仮説を持ったからである。

 SNSが登場してからのITの方向性は変化してしまった。

 でも、それは自転車や自動車のように使わざるを得ない存在となってしまった。

 結局は、調べたいこと、知りたいことを獲得できるスピードが速いからである。

 挑戦は諦めないてはいけない。遠藤周作先生の生活と人生の話が頭から離れない。

 砂の道を歩きたいと常々思っている。自分を振り返った時に、足跡を残したいのである。

 アスファルトの道を歩いていたなら、振り返った時に足跡が見えない。そんな寂しい生き方で良いのかと。

 生活が安定していれば、チャレンジーとして足跡を残せることに取り組めるだろうと思う。

 そこで、別の意見もある。自分の代でできなければ(時間が足りないならば)、子供に引き継げば良いのだという意見である。

 挑戦したい事が実現が難しくても、諦めずに、子供にバトンタッチするつもりで取組めば良いのだと改めて思う。

 私達がどうしようもできないことは時間の刻みである。だからゆえに、諦める事になっている。

 挑戦をやり遂げるために、お金やその他のことが不足するなら、そこで挑戦を止める事なく、時間の経過を受け入れて子供に委ねれば良い。

 このように、挑戦に頭を使い続けることは人生において一番重要なのではないかと思う。

製造業の業務革新はドイツが進んでいる?

ドイツで仕事をされている人の話を聞くことができたので、感想をお話しします。

 industrial 4.0という言葉を聞いた事が有ると思います。ものづくりのフレキシブル生産、お客様による生産への要求などの実現を高度にITを用いてドイツを中心に10年前から取り組まれている戦略的構想です。

 現在は、コロナ禍ということもあり、ロボットによる食品加工や物流のAGVが非常に伸びているとの事。

 お話をお聞きして、一番思うことは、ものづくりについて日本とは大きく考え方を進歩させているということです。

 日本でも大手ロボット企業にては、高度な自動生産を行なっているところはあります。

 自動化についての考え方が日本はまだまだ投資対効果の天秤で投資が大きいと判断されてしまいがちで進みにくいテーマです。

 取組みの仕方も、特に中小企業が90%を超え、日本のものづくり企業の構成とドイツは近いのですが、中小企業をまとめて推進する力強さが印象的でした。

 日本はサプライチェーンの中でも、ものづくりの能力向上の結束は弱いと思います。

 更に系列を超えた中心企業をIT戦略でまとめあげることも進んでいないと思います。

 ドイツのようにITや自動化を進める時に振り返らなければならない事があります。

 それは、それらをなぜ行うのか?というこれまでの思考の整理とどのような考え方とするか、その方向性をどうするかなど未知の今後の考え方の整理必要になってきます。

 日本は過去の思考の整理をするにしても、個別の範囲の自動化やIT化になっている事が多かったのではないでしょうか?

 個別の判断においては投資対効果だけの狭い評価になりがちです。

 日本としてどのような方向になるべきかなどという事を一企業が考えることはないと思います。

 ものづくりは自動車を始めとして、裾野が広く多くの労働者が関係しています。

 その様な規模に合わせて、IT化や自動化を考える必要があります。セットメーカーは仕入先の力が向上しなければ成長は厳しい。しかし、仕入先の力を向上させることに力が入っていない。

 自動車は欧米から自動車運転車の火がつきました。

 彼らは自動車運転が実現できるかどうかではなく、自動運転にすべきであるとの強い意志で進めてきたと思います。

 実現する為には、どのような基礎技術の研究が必要なのかをずっと以前から考えてきたのだと推察しています。知識の棚卸しは随分前に終わっているのです。

 industrial 4.0においても、概念先行型で着実に進めていて、実現のために必要な技術開発を政府主導に始まり、民間主導にて幅広く展開されてきていることは素晴らしいことだと思います。

 周知を集め、企業、大学を超えて中心企業とも一体となり進んでいる姿を聞き、感心しました。

 日本人が知り得ないものづくり知識の広範で深い研究と技術蓄積が共有化されているはずだとも推察しています。

 私達の国は今後も個々の企業が協調よりも競争重視のままでは、ドイツのものづくりの仕組みには勝てないのではないかと多いに心配になったのでした。

最終組立における設計者のジレンマの解決方法

組立工程の視点から製品設計者が直面するジレンマをお話し致します。

 組立工程というものは、複数の部品から構成される製品を組立する工程もしくはは生産ラインを想像して下さい。

 子供達が校外学習で自動車の組立ラインの見学が行われているので、その生産ラインを思い出して見てください。

 ラインを外から観察すると、いかにも問題もなく、ものすごい速度で車が組立られているように見えると思います。

 部品を自動車に組立するには、その作業は大工さんの釘打ちを想像してください。

 釘を打つ際には肩の少し上あたりの高さの釘を打つのが一番楽な姿勢で作業ができる。

 これは自動車の組立工程での作業でも同じことです。

 しかしながら、車の中の作業や、車の床裏に組むサスペンションなどの組立作業は一番楽な姿勢で作業を行うことが難しい。

 設計者は自動車の製品構造の図面を描く時に、機能の実現以外に原価や品質、作業性など多くに生産ファクターに留意して線を描く必要があります。

 一方で、生産側にては、この解決できない作業性を設置や方法などを工夫して対策をする。

 しかし、設計でも生産側でも本質的な対策ができないことが多々あります。

 この本質的な対策ができない事について、どのくらいの満足度で双方が納得し合うかが、その企業のものづくりの到達度の高さを表すものと考えています。

 設計者には倫理観を持ち、どんなにあらゆる問題を解決したくとも解決できない問題が残るものである。

 その残問題を生産側の力で解決されているから製品が粛々と生産できているのである。

 先の組立ラインの素晴らしいものづくりは、生産側が設計者のジレンマを解決した結果である。

 このようなことを理解できない設計者にならないように人を育てることが重要と思う。