異なるシステムの連携はデータの粒度と分類体系が異なっていては生産性に寄与できない。

Eメールは氏名の下にテーマがある。では特定のテーマを全メールから集めるにはどうしたら良いのか。メールでは意見を集約できない。


ファイルはファイル名が意味を持つ場合や持たない場合もある。これでも同じような内容のファイルを検索できない。


データベースになると、細かい項目単位にデータを保存する。しかし、その上位の分類をどのようにするかは全くの自由である。これでは複数のデータベースは結合ができない。


つまり、思いつきのままで自由にデータを保存したり、やりとりして下さいというソリューションばかりである。


全体の分類をどうすべきか、データの粒度を、どのように整えるべきかとの検討がされずにソリューションが作られたからである。

この2つを曖昧にして、情報システムが人の仕事の生産性向上になるとは言えない。AIを活かすに於いても、意味のあるデータを準備しなくてはならない。


もし、今のままの雑然としたデータ群を対象に何の取捨選択もなくAIの処理のかけたならば、その結果を人は説明も推察もできないおかしなことを答えてくるであろう。

自社のDXシステムは内製で構築すべきと考える理由とは

テレワークの要請が改めて企業に出された。テレワークができない仕事もあるが、テレワークを行える企業とそうでない企業があるからが問題である。

 そもそも、企業の中の業務プロセスが個人の責任が大きいのか、それともチームでの推進が大きいかにもよる。チームでの業務推進はIT環境の共有度にもよる。もう一つは、企業のITセキュリティポリシーの違いにもよる。

 日本の労働生産性の低さとIT活用度の低さには大きな関係性がある。共に人の仕事の効率性を指摘されているのである。

 約30年、企業の内外で業務改革を推進してきた経験から述べれば、企業内におけるIT組織の力が弱いことがあげられる。

 もう一つは、ユーザーとなる人達も業務改革意識が低いことがあげられる。

 ITを使って、業務改革をするんだという意識が足らず、活動が低迷している様に感じられた。経営陣も牽引者が明確でないこともあった。

 このような中で、企業は外部のシステム会社に、要件定義まで丸投げすることが継続し、それにて売上を得る業態ができてしまった。それも建築のゼネコンではないが、ITの下請け構造が階層化し、知識が分散化してしまった状況になっている。

  企業の業務改革は自らの手で改革の方策を決めるのが当然であり、外部への依頼は余程の専門的な外部知識以外は必要の無いはずである。

 どうも、30年前くらいから、企業が企業自身が行うべきことを安易に外部依存している様に思う。考えることを放棄している様にも見えることが多かった。

 このようなことから、企業の中に業務改革意識を持つ管理者や次世代を担う若者が育ってこなかったことが業務の生産性とIT活用が遅れている要因である。

 ITの知識獲得も外部から把握するスタイルであり、企業自らIT情報を獲得に歩くことも少ないようである。IT投資は大半が人件費である。構築済みのシステムの分からないことを分かるまで把握するには、もはや不可能に近い工数がかかることになる。

 社内のシステムを構築した知識ある企業に外部依存した方が、相対的にコストは低くなる関係性になってしまっている。

 一方で、システム企業は社員の転職が大変多いのである。特定の企業のシステムを経験した人が他のシステム企業に籍を変えるのは、システム企業も特定企業のシステム知識も貧弱になっていくのは当然である。

 となれば、システムを改造するにも、期間が長くなり、不具合の可能性も高まり、結果的に費用が増大することになる。

 このような状況の中で、ITを活用して効率化することは、そもそも費用対効果を考えた場合にIT投資そのものが削減されることにもなるのである。或いは、システム会社もリスクがあり受注したくない案件も出てくる。

 今後は自社のシステム構築は自社内で可能にする方向に進めていくべきではないかと考えている。

製造業のための技術検索システムが必要だ。

検索システムの開発が必要ではないかと考えている。商業用途に付加した検索システムでは、知識を獲得したい知的好奇心の人には満足できないと思う。今は、そのようなツールが無いので、仕方なく商業用途の検索システムを使っているのだと思う。そうではなく、知りたいことを知ることができる検索システムというものは無いのだろうかと思うのである。

 このまま不必要な情報が膨張していき、その中にほんの少しだけの考えることに必要な知識が埋まっている状態が続くならば、この検索システムはどんどんと使えないツールになっていくような気がする。

 商業用途と学習用途に検索システムが分かれている必要があるのではないだろうか?そうすれば、子供にも学習用途で使って貰えることができる。商業用途であると儲けたい人が子供向けにはふさわしく無い広告などをWebに登場させる。これは、きっとイタチごっこで、今後も完全に排除することはできないだろう。排除しようとする倫理観は、儲けようとすることと明らかに異なる立場であり、対局にあるからだ。
 
 本来、学習用途の検索システムが存在していないといけないのだと思っているが、そのような動きはあるのだろうか。商業用途の中に構成すべきものとは思わない。
では、学習用途の検索システムは誰が開発すべきなのだろうか。それよりも、誰が開発できるかの方が問題のように思う。

 学習用途の検索システムを開発するには、検索技術ということが問題になるのではなく、学習とは何か?どのように人は学習しているのか?などの知識獲得の仕組みについて探究している人が適切である。ユーザーが開発すべきである。それはは誰かという問題であると思う。情報システム企業に丸投げすることで完成するとは思わない。

 たぶん、大学や企業の中のデータは学習用途に適する情報がいっぱいあると思う。そして、そのような情報から利益を得ようとすることから、商業用途の情報に全く内容が変化しているのだと思う。

 したがって、大学や企業における学習用途に適する情報を外部の検索システムに登録されれば、商業用途の検索システムと別な情報蓄積のネットワークが構築できるだろうと思うのである。

 ものを売り買いすることと、知りたいことを知ることは別な欲求である。少なくとも前者は金銭が伴う。後者は研究の意欲が伴う。後者には、科学、社会、歴史、文学、数学、、、、あらゆるものが対象である。wikipediaがやっているようなことを外部に切り出し独立化して欲しいのである。その上で、検索システムを作ることができれば良い。明らかに検索処理は異なる方法となるだろう。知識の記録方式もこれまでとは異なるものとなるだろう。来年は、こんなことをもうし少し考えてみたい。

製造業のデータ検索は人ではなく技術を対象にすることが重要です。

知識の記録方式において、記録した知識をどのように検索するかは重要なことである。見つけることのできない記録など意味がないことである。現在のホルダー名称、階層、ファイル名における問題とファイル形式や、ソフトウエアの違い、保存場所の違い、OSの違いなどによる問題とソフトのバージョンアップによる過去バージョンのデータの互換性の問題などの解決方法を考えなければならない。

 更に、検索の方法そのものについても、解決しなければならない。それは、現状の検索ツールを使っても、欲する情報を得ることができているかという点では、不満足である。欲しない情報が混ざっている。検索結果が膨大であり、その表示順番はユーザからみて、コントロールできないことなどである。結局、探すことに多くの時間とストレスを感じているはずだ。私もその被害者である。

 少なくとも、自分で作成したデータはすぐに見つからなければならない。企業の中でも、欲しい情報はすぐに必ず見つからなければならない。このことに対して、行っていることは、ホルターとファイルの名前の付け方の工夫に依存している。そして、ファイルを開かないとそれが欲しい情報であったのかが確認できない試行錯誤作業を繰り返している。この方法からの脱却が必要である。海外との共有にもファイル名が理解できないという問題がある。

 異なる経験を経てきた人達であっても、誰でもそれぞれが欲する情報を見つけることができることができなければいけない。そして、更に、自分では当たり前なことだと思っていたことが、そうでないことが気づくとか、知ることができるとか、見えていなかったことを知ることができるなど、このようなことが実現できなければ、知識を記録した価値が生まれない。知識の記録方式はその情報を活用できて初めて価値として認識される。

 人の記憶をうまく利用しながら、検索の方法を考えることが現実的な方法だと考えています。検索だけで、単語だけで、本当に知りたいことを見つけることができないのは分かっている。その単語すら忘れてしまった場合にどうすべきかに関心を持たないと活用ができない知識の記録方式になってしまうだろう。そこで、人が記憶できていること、それも誰でも(殆どの年齢層の人が)記憶していることを用いて、知識を検索する方法が良いだろうと考えている。ある点では、心理学的な研究成果を利用することが有益だと思っている。

 このようなことを考えて、知識の記録方式の開発を進めていきますので、今後とも、引き続き宜しくお願い致します。

製造業のDXを進める上での考え方

昨今、世の中が複雑だ。複雑化しているということが良く言われている。答えを見つけようとすると、答えが出せない時に複雑なのでと言われるようだ。それは本当に複雑な問題なのだろうかと疑うこともたびたびある。

 複雑だという時には、解きたい問題に対して必要十分な関係性が明確になっていないことを表している。関係性を明確にしようとの努力がなされていないこともあるだろう。関係性そのものを言葉でも表現できないこともあるだろう。表現することができるが、その関係性を提示することは自分の役割だと思っていない場合もあるだろう。

 昔は複雑ではなかったのだろうか。多分、多くの人は、昔は単純であって、それに比較して複雑化している様に思っているのだと単に思っている。では、昔なら、今解決したいことが解くことができたのかと言えば、それはノーである。

多岐に渡る関係性を議論しないと解けない問題が多く出てきたということだろう。その問題はずっと昔からあったが、それを問題とすることを皆が行わなかったからではなかろうか。

 では、何故、昔からある問題を、今日取り上げなければいけなくなったのだろうか。問題とするかしないかは、個人、企業、社会、国、世界としてどのくらいの重要性として認識するかであり、この単位でバラバラに述べられる意見では問題として認識し合うことは難しい。

それぞれの価値観の異なる集合と異なる単位との関係で問題であるとの合意ができない。誰かが、この問題はこの単位の中で合意と解決をすべきことだと言い切らなければいけない。個人と企業の単位では明確に言い切る責任者がいるが、どうも、その外側にある社会という単位になると怪しくなるのがこの国の問題でもある。

 このような集団の単位についての問題認識の要因の他に、複雑化させている原因に、行きすぎた管理の細かさがあると思う。もっと粗く捉えていても十分に何を成すべきかが分かることが多い。データの項目をどんどん新しい項目を追加するばかりでは、複雑化するに決まっている。

データを入力することが仕事と勘違いされてしまう。ある意味、デジタル化の弊害だと思う。真にデータの項目が企業の中で関係組織との共通認識が有るように位置付けられているだろうか。

個別に構築されたシステムをたくさん保有している企業の問題は複雑化していることが問題ではなく、企業内の活動指標の不明確さが問題であるのだと思う。もっと原理原則に立ち返り、単純化して考えるとシステムの取捨選択はできるはずだ。そして余分な業務は廃止できるはずである。しかし、このようなことを考え行動するIT部門がいないのは更に問題なのである。

 加えて、組織間連携に穴のあるデータ項目がある。これは前後工程の業務が孤立していることとなり、その連携に人が関与していることになる。労働生産性が低いのは、このようなことを長年、放置しているからだろうと思う。

余計なデータに振り回され、それでもデータ間の連携ができないならば、当然の結果である。どうも日本の業務はプロセスを管理していないように見える。プロセスを管理するならば、このような矛盾や余分なことによる複雑化にはならないだろう。プロセスを管理しないならばIT技術は生産性に寄与することは無いからだ。

 単純化し、システムを作り直した方がスッキリとするのではないだろうか。過去の複雑性を引きずっても、そのうちに破綻するように思う。自社のシステムは自社の手で構築するしかない。

いつのまにか部分的機能のシステムを購入し続け、結果として複雑化になっていることを直視した方が良いだろう。DXは要注意。複雑化の上に構築しては重しのようになるだろう。業務のシステムは改廃が当然。

基礎に知識のシステム化が必要であるはずだ。しかし、そこに複雑化を好むシステム屋に外注化することは投資と工数の無駄遣いになるのではというチェックが入ることを願っている。

私達の仕事はITを用いて進めるように求められている。それを実現できるのは自分自身や自社自身だけであることにもっと責任を持ち考えることから逃避しないことだと思う。