最後まで挑戦し続ける人材の育成を

挑戦は誰にもできる。それをやり遂げることは誰にもできることではない。

 一言で挑戦と言っても、その難しさはさまざまである。

 ここで、述べたいことは諦めないということだ。

 私は知識の記録方式ということをライフワークとしている。

 何社かの企業と連携したこともある。しかし、企業の方針はすぐに儲かるか?という点になってしまった。

 ならば、自社だけでやり遂げることと決めた。

 長く継続した研究は先行者優位である。世の中にすぐに受け入れられることを目標にはしていない。

 気合いだけを入れてこの研究に没頭してきたのである。

 そこにはGAFAの巨大化が私達の自由度ある時間を奪っているのではないかとの仮説を持ったからである。

 SNSが登場してからのITの方向性は変化してしまった。

 でも、それは自転車や自動車のように使わざるを得ない存在となってしまった。

 結局は、調べたいこと、知りたいことを獲得できるスピードが速いからである。

 挑戦は諦めないてはいけない。遠藤周作先生の生活と人生の話が頭から離れない。

 砂の道を歩きたいと常々思っている。自分を振り返った時に、足跡を残したいのである。

 アスファルトの道を歩いていたなら、振り返った時に足跡が見えない。そんな寂しい生き方で良いのかと。

 生活が安定していれば、チャレンジーとして足跡を残せることに取り組めるだろうと思う。

 そこで、別の意見もある。自分の代でできなければ(時間が足りないならば)、子供に引き継げば良いのだという意見である。

 挑戦したい事が実現が難しくても、諦めずに、子供にバトンタッチするつもりで取組めば良いのだと改めて思う。

 私達がどうしようもできないことは時間の刻みである。だからゆえに、諦める事になっている。

 挑戦をやり遂げるために、お金やその他のことが不足するなら、そこで挑戦を止める事なく、時間の経過を受け入れて子供に委ねれば良い。

 このように、挑戦に頭を使い続けることは人生において一番重要なのではないかと思う。

製造業の設計者の安全についての倫理観について

世の中はもので溢れています。今日は、ものの安全性と設計者の倫理観について述べたいと思います。

 大きなものは原発、化学工場、鉄道、航空機、自動車、建築、玩具、電気製品や小物に至るまで、安全規格は規定されています。

 ものの安全において、利用段階での安全性は一番気をつけなければいけないことは言うまでもありません。

 企業は利用者との距離が近く無ければいけない。近いとは敏感で反射神経が優れていて欲しいものです。

 お客様窓口を設置している企業は多い。しかし、お客様の意見や要望、苦情が安全に関してどのように関連するものであるかが判断できているのであろうか?

 多分、受付処理の機能となっていて、問題は、受付られた情報は、どのように社内展開されていくのかにある。

 神経がピントしていて末端まで伝達する能力は企業風土によっては、かなりの差がある様に思う。

 ものの設計者が一番心配することは、安全性であるべきです。しかし、ものが果たす機能の実現に偏重してしまうと、安全の配慮が疎かになるのである。

倫理観は社会生活の場面だけではなく、仕事をする際にも個人が保有すべき重要なことであります。

 まして、自分の設計する製品が市場に広く利用される設計思想においては、充分にチャックされるべきことです。

 人類は危険にチャレンジして飛行機を開発するなど、チャレンジも一方では人の役に立つ技術として大きく貢献をしてきた。

 しかし、墜落事故は無くなっていない。まだまだ技術の開発が必要なのです。

 原発は同じくチャレンジの要素が大変強いものである。しかし、未だどんなリスクが一般人にあるかは伝わっていない様である。

 あれだけの事故を起こしながら、想定したリスクに対して、原発の設計構造やシステムの中にどの様な対策が取られているのかが分からないのである。

 安全性は一般の人が理解できる様に説明されなければならない。

 プロフェッショナルな方だけが理解していても、起こりうる可能性が完全に対策できていると自信を持って言えるだろうか?

 要するに言い切れないことがあるはずだと思う。それは設計者が心配しながら図面を書いた段階で脳裏にあったことも含まれる。

 あれだけの規模の構造物と物理現象他の組み合わせの巨大装置が完全無欠であるとは思えない。

 同じ機能を設計するにおいても、設計者が異なると全く違う設計をすることもあるだろう。

 この様に人によって設計が変わること自体に、その製品の技術的な未熟さがある。

 全くの飛び抜けた製品が出にくい日本は、ある意味思考が保守的で安全を大事にしているからだと思う。

 しかし、一方で、危険が当たり前(素直に危険だと思うこと)であっても、対策が打たれないことも原発だけではなく他にもある。何かおかしな気がして仕方がない。

 市場に出てから問題を起こさない設計をするには、設計者が保有する技術力のほかに、何が安全で、どうすると不安全になるかを想像できる力が必要であり、その力は設計者としての素直な倫理観によって認識されるものである。

インターネットから隔絶された環境に身をおくことのできる登山の良さ

登山の魅力は黙々と頂上を目指して登ることで得られる達成感と爽快感。日本百名山の写真集を見つけると、登ってみたくなる気になる。厳しい絶壁に張りついて、一歩一歩足を運ぶ無の境地。きっと下界の苦悩は考える余力もないだろう。何かに集中するとこのような心境になるものである。

 どんなことでも集中できることや物があると良い。日常生活のストレスを和らげる事ができるからだ。絵を描く、器を作る、本を読む、スポーツを観戦する、掃除をするなど何でも集中できることを見つけることを勧める。要するに忘れることができなければいけないと思う。今の時代はインプットが多すぎる。その多すぎる情報に漂わされているような気がする。

 インプットしたくもない情報を知らせれることは何とか無くせないものかと思う。だから山に登って無心になると気持ちが入れ替わるのではないだろうか。現代人はインターネット環境に染まり過ぎている気がする。私も完全にその世界に入り込んでしまったひとりである。

 インターネット環境から逃げる手段はと言えば、電波が届かない、電気の無い場所に行くしか無い。そうでもしなければ、ついスマホを手にしてしまうからである。ゲームをするのではなく、SNSに誰かが投稿していないだろうか、メールは来ていないだろうかという行為を毎日、何十回も行なっているのである。

 インターネットが無ければ、そのような過ごし方をしなくて済む。今、自分に欲しいのは、そのような環境である。それには、自分自身で努力して耐えなければならない。かえって耐える事がストレスになってしまうのである。もはや逃げ場のない状況になっていると思っている。

 仕事と仕事でない事の境目が無くなってしまったと言える。仕事のようにスマホを操作することと、遊びのようにスマホを操作することの区別をつけれない状態になっているのである。ある時仕事の関心に操作され、そのうちに遊びの関心に操作が移っている。このような事ができない場所として、登山がある。このような考え方は純粋な登山家にはおかしな動機に思われてしまうだろうが、インターネットから逃げるには登山が良いと思う。

 登山をするにも準備やルートの計画は必須である。そのような事に集中する期間も作れてくる。その間、少しでも目的の薄いネット検索は減らす事ができる。今日の生活は、いかに自分が集中できることを見つけられているかどうかでが大切であり、貴重な時間を有意義に過ごせているかを決める1つのパラメータになっている。

 このようにインターネットから隔絶された環境に身をおける場所を求めているのが、最近の自分であると認識している。外部の電波を遮断した場所が都市の中に作られても良いのではないかと思う。

デザイナーの発掘と育成に燃えた山本寛斎さん。製造業も同じく燃えよ。

芸術家だけではなく、小説家も、社会人も何かをやり遂げようとして努力を続けている人は、その道において、少なからず、このようなことを守り抜きたい、悟った、このようにありたいと言うような境地に至るものである。それは、幾多の試行錯誤を経て、年月を経て獲得することができることと思う。

 最初は、先生や指導者から育成指導され、失敗もして到達する自分だけの領域を発見するに至るのであろう。それには、情熱というものが必要であるが、これが継続しないので困る。

 先日、山本寛斎さんのドキュメンタリーをTVで見る機会があった。確か“苦しい時でも、道はある”といった題であったと思う。特別に服のデザイナーに興味を持っていたのではないが、その題に惹かれ見入ってしまった。

私は山本寛斎さんの生い立ちまでは知らなかった。とにかくガッツのある人だったと感心してしまう。スーパースターが苦労もなく、その位置に到達したのではないことで、尊敬の念が沸き起こったのは私だけではないだろうと思う。

 山本寛斎さんは若いデザイナーの発掘と育成に貢献していたことを初めて知った。とにかく尖って個性を大事に、屁古垂れることなく、必死になどの言葉にあるように、行動と思考が一致した方であったと感じた。

 翻ってみると、このような熱い方が、どんどんいなくなってしまっているように思う。経営者の中にも熱い方が本当に少ないのではないだろうか。自己を捨て身で、社員に対している人が少なくなっている。表層的な売上高や株価などに視点が移り、社会にどのように貢献しようとしているのかが伝わってこない。

 一度発言した方針を、いつか語らなくなっている。そのうち忘れてもらえるだろうと考えているならば、多いに反省して欲しいと思うのである。このようなことが、いつ頃から始まったのだろうかと思うと、インターネットが世の中に浸透し始めた2000年前後のように思える。あまりにも表層的なビジネスが乱立してきたように思う。特に人を介さず中抜きのような、ITインフラを競争に使っていることは残念でならない。

 そこには心や情熱が人に向けられていない。企業は社会貢献であるべきで、その結果として収益が入るのだと思う。社会貢献的な発言をしているが、実業は、単なる物売りやサービスでしかないことになっていないだろうか。このようなことも自由なのだから問題はない。

 しかし、それでは、人の社会は崩れていくのではないかと心配している。境地と言うと、それは個人が至る心かも知れないが、長く企業に勤める社員が、何らかの境地を獲得することなく過ごすことは多いにもったいない生き方ではないかと思うのである。境地の事例が公開され、企業人のマインドを見聞きする機会がもっとあると安心することができるかも知れないと思う。

 山本寛斎さんの活動は、デザインされた服と日本元気プロジェクトに明確に記録された。そのプロセスを一緒に携わった人達の心にも、しっかりと刻まれている。このような境地の記録が動画と語りでの紹介は大変分かりやすかった。

考えることを放棄しない社会に

人は考える葦であるとは古い言葉である。最近、この人、本当に考えているのだろうか?と思ってしまうことが多い。正々堂々とした意見をみんな言っているだろうか。言われた側も、それを真摯に対応しているだろうか。見ざる言わざる聞かざるでは、この国の将来はどうなるのだろう。皆が面白いと言ってくれるなら、何をしても良いのか?そんなことはない。

 予測を外れた挙動や行為に直面した場合に、人は驚く、呆れて、そして忘れるようになってしまったように思う。何でも法律は裁けない。そんなことは山のようにある。そして、法律が予測していること以外に多くの予測していない事例が起こっている。

 新型コロナウイルス対策もその一つ。もうじき一年になるが、まだ、行動を自粛することしか言えないって、おかしいと思う。科学的分析に基づく対策が具体的に10も20も述べられていなければいけないはずだと。飲食規制や行動規制という、誰でも言えることしか言い続けていない。その一段下の具体的なことを聞きたい。だから、考えているのか疑わしくなる。

 日本は貧困者が多いと言われている。彼らに手を差しのべるボランティアがいるのは嬉しい感謝したい。しかし、この問題を誰が真剣に考えているのだろうか?。それが具体的に見えない。それが苛立ちとなっている。つまり、誰もが言うような一般論ではなく、具体的にどう対策をしようとして、それにどのように取り組んでいるのか、どのように効果が出ているのかを社会の人は知りたいのである。責任者の顔が見えないのである。

 どうも表層的な議論に終始して、一向に深掘りする議論にならないのは、国も企業も社会も共通のように思えてならない。考えることを放棄していては、展望が見えないままになってしまう。

現在、もっと真剣な議論が湧き起こるべき環境下に私達はいるのではないだろうか。youtubueの笑いに逃避していてはいけない。若者はもっと、真剣に問題を指摘して討議すべきだと思う。それは自分達の未来の為になるからだ。諦めてはならない。

 考えることはお金はかからない。原理原則に立ち返って、見えていない、そして発言できていない言葉にしてみたら良いと思う。少なくとも言語に表現されなければ、皆に共有されない。世の中は、具体的な対策の言葉を待っている。

 私も長く生きてきた。もっと若い頃から考える習慣を身につけていれば良かったと思う。会社員であることが生きることではないのは皆が分かっていること。しかし、その仕組みや仕掛けの中に身を置くしかないこともあるだろう。

それは仮の生き方と思っていないと飛立つタイミングを逸することになる。考えない葦にならないようにしたい。10年後には、あらゆる価値観が変化するかも知れない。